れきし
2021-02-05
浪江の「かくれた歴史」…権現堂城
新町通を北へ、県道120号線を小高方面に向かうと右側に「権現堂城跡入口」という標柱があります。
この奥が権現堂城(別名西台館)跡です。
車では奥まで進めません。
徒歩であれば入口が何箇所かあります。かつては、徒歩で本丸跡付近まで辿り着けたので、散歩コースに良い場所だった様です。しかしながら今現在は、笹薮地帯となっており、奥までたどり着くには相当の勇気と覚悟が必要かもしれません。(立ち入り禁止ではありません。)
権現堂城の築城年代は定かではありませんが、文安年間(1444~1449)に標葉清隆(しねはきよたか)によって築かれたと伝えられています。
場所は西台、請戸川の北岸です。ご存知のように戦国時代に入ると、北方の相馬氏、南方の岩城氏との抗争が激しくなり、嘉吉年間に築城した本城館は、平城で防備に難が有った為、防衛力の高い城を求め権現堂城に移ったと言われています。
標葉氏は、標葉六騎七人衆という一族を率い、平安末期から標葉郡で安定した勢力を保っていました。しかしながら、1492年、相馬盛胤に攻撃され、城主・清隆とその子隆成は自刃し、約300年に渡ってこの地を支配していた標葉氏は滅びてしまいました。
現在、権現堂城跡の敷地内に祀られている雷神社は、後世に安置されたものだそうです。
西台の氏神様であり、嘗ては、ここを駆けまわって遊んだという方には、当時の様子を楽しそうにお話して頂きました。また、盆踊りをしたという方、更には、裸参りの経由地であったなど、浪江町民に大変親しまれた場所だったとのことです。
桜の季節に、リバーラインと権現堂城跡を散歩して、昔を懐かしみながら時を過ごせればいいのにな~、とふと思ってしまいました。
皆さん、如何ですか。そんな浪江町の歴史にわくわくしませんか。
出典・参考文献 : 「日本城郭体系 権現堂城」 「みちのく悠々漂雲の記」 「浪江町ホームページ」
取材・編集:一般社団法人まちづくりなみえコミュニティ再生支援事業 地域づくり支援専門員
▼一般社団法人まちづくりなみえ
http://www.mdnamie.jp/